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高松地方裁判所丸亀支部 昭和38年(わ)136号 判決 1964年3月23日

被告人 高嶋イセノ 外二名

主文

被告人三名をそれぞれ懲役三年に処する。

被告人三名に対しそれぞれこの裁判確定の日から三年間、右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人三名の連帯負担とする。

理由

(本件犯行に至る事情)

被告人高嶋イセノは同山神ヨリの姉、同山神杢助は同ヨリの夫であり、金場竹市は被告人イセノの弟、同ヨリの兄であるが、竹市は酒癖悪く粗暴なる性質の持ち主である上、四〇才を過ぎてなお素行が治まらず、兄姉間を金の無心に廻つたりするので親戚間で極めて不評を買つて居た。被告人イセノは尋常小学校六年のとき父金場和市が縊首して死んだことを恥じて高等小学校一年のとき退学し、爾来辛酸を尽して看護婦となるや激務を厭わず精励し、一時は善通寺市所在の大正看護婦会長としてこれを経営するまでに至つたが、太平洋戦争のため夫勝男の経営する自動車業と共に右看護婦会経営の基礎を失い、終戦後滋賀県で始めた亜炭採堀業に失敗して財を失つたが、その間竹市のために何呉となく心を配りそのために尽して来たので、竹市も被告人イセノに対しては親愛の情を抱いて来た。被告人杢助は大正八年頃関東庁旅順の警察官を拝命し、後に警部補に昇進し、昭和七年頃に退職の後、華北交通株式会社において鉄道警察の任についたが、終戦後昭和二一年頃善通寺市上吉田町四七九番地の二に引揚げ、そこで菓子製造業を営むに至つた者であり、被告人ヨリは大正一二年頃に被告人杢助と結婚し満州に渡つたが、子供が長ずるにつれ、昭和一七年頃には被告人杢助を満州に残して右善通寺市に帰り、杢助の引揚げと共に右菓子製造業を手伝つていた者であるところ、昭和二四年春頃竹市は右被告人ヨリ宅を訪れ、同被告人に対し金の無心をしたが快よく受け入れられず、更にその頃竹市が綾歌郡飯山町東坂本所在の逢坂貞利と取引きせんとした際、被告人ヨリが右逢坂に対し竹市の債務の保証はできないと告げたりしたので、竹市は被告人ヨリ、同杢助を深く憎悪するに至つた。

(罪となるべき事実)

昭和二四年八月末日頃、金場竹市(当時四六年)は前記善通寺市上吉田町四七九番地の二所在の被告人杢助、同ヨリ夫婦宅を訪れ同被告人等に対し、「おどれのような奴は人間ではない。血も涙もない奴じや。人が餓死しようがどうならうがかまわんつもりか」等と悪罵し、且つ右被告人杢助宅で殆んど夜を徹して酒を飲み、果てはあたりに物を投げつけ、被告人ヨリを蹴りつけようとする等の暴行に出で、偶々右被告人杢助夫婦宅に滞在していた被告人イセノがその理由を糺し或は必死で諫めるのも聞き入れず、そのような状態が二、三日続いたため被告人イセノは遂に心身共に疲労困憊し、且つ竹市のため隣家で寝泊りすることを余儀なくされている被告人ヨリ夫婦に痛く同情し、又被告人杢助、同ヨリは竹市の右の如き言動に甚だ困却したところから、被告人三名はこのうえは竹市を殺害する他なしと考えるに至り、同年九月二日頃の夜被告人三名は右竹市を殺害しようと共謀の上、折から竹市が右被告人杢助宅六畳間において泥酔の余、昏睡横臥しているのに乗じ、被告人杢助において長さ五尺位の麻紐を竹市の首に巻きつけ、その一端を被告人杢助が、他の一端を被告人イセノ、同ヨリがそれぞれ握つて双方から強く引き合い、竹市の首を締めつけ、即時同所において竹市を窒息死せしめて右殺害の目的を遂げたものである。

(証拠の標目)(略)

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人等三名が本件犯行当時心神耗弱の状態にあつたと主張するが、被告人等三名の前記各供述調書を精査すると、本件犯行当時被告人等三名特に被告人高嶋イセノは、あばれる竹市をなだめて精魂を傾け尽し、極めて疲労した状態にあつたことを認めることができるが、それでも尚被告人等三名共に事理弁識の能力に欠けるところはなかつたことが明らかであるので右の主張は採用しない。

(法令の適用)

被告人等三名の各判示所為はいずれも刑法第一九九条、第六〇条に該当するので、各被告人につきいずれも所定刑中有期懲役刑を選択するところ、(イ)前判示の如く被告人イセノは元看護婦として、同杢助は元警察官として、共に教養を具えあくまで生命の尊厳を護るべき身でありながら、被告人イセノ、同ヨリにとつては実の兄弟であり、同杢助にとつては妻の兄である竹市を殺害することによつて竹市の酒乱からのがれようとした点、(ロ)殺害行為そのものは竹市の泥酔に乗じその無抵抗を利用して行われたものであつて、被害者を完全に支配下に置いてなされた点、(ハ)犯行の翌日竹市の死体を犯行現場床下に埋めて犯跡を隠滅せんとし、被告人等三名共同して右床下に横三尺位、縦六尺位、深さ四尺位の穴を堀つて竹市の死体を埋め、死臭を消すため多量の番茶をふりかけ、その上にセメント一袋に土砂を混ぜて死体をコンクリート詰めにし、その上に厚く土砂をかぶせて竹市の死体を土中深く隠した点、(ニ)被告人杢助、同ヨリは昭和三一年六、七月頃まで自ら殺害した竹市の死体を埋めた同居宅に居住し、被告人イセノは昭和二四年一二月一五日頃まで同杢助、同ヨリと共に同被告人等の右居宅に居住した後滋賀県へ帰つていたが、その後昭和三二年頃竹市の死体を埋めてある宅地の上に住家を新築して今日まで居住し、共に長年に亘り平静を装つてきた点、(ホ)被告人等三名は竹市殺害が官に発覚しないのを幸に、昭和三八年一〇月一五日被告人ヨリが水口警察署に自首するまで約一四年間に亘り、ひたすら公訴時効の完成を願つて俗世塵海を渡り、あまつさえ被告人イセノ、同杢助においては被告人ヨリが自首して出んとするのを幾度にも亘り阻止した点等からみて被告人等の刑事責任は極めて重いものがあるが、他方、(イ)本件犯行直前における竹市の前判示の如き粗暴なる振舞いには非常に常規を逸したものがあり、そのため煩わされて極度に疲労した被告人等が遂に思い余つて竹市を殺害したものであつて、その動機において同情すべきものがない訳ではなく、(ロ)遺族である金場潤子及び竹市と潤子の間の子である清に対し、被告人イセノは従来それと知れずに約一五万円位の補償をして罪の一端を償なわんとしており、今後も被告人等三名は右遺族に対し、一時金及び清が高等学校を卒業する時までの生活補償金を毎月支払うことを約して謝罪の意を表しており、(ハ)本件犯行当時被告人杢助、同ヨリには二人の子供があつて、長男毅は求職中であり、二男雅典は高知高校(旧制)在学中であり、被告人イセノには子はなかつたが当時被告人ヨリの右子供達に深い愛情を寄せていたので、被告人等三名は共に本件犯行が露呈して右二人の子供の将来に悪影響を及ぼすことを深く憂慮し、互に堅く口を閉ざしたままひたすら公訴時効の完成を待つたのであるが、その間にも被告人イセノにおいては、犯行当日の九月二日を竹市の命日としてその菩提をとむらい、被告人ヨリにおいては犯行の翌年より竹市の位牌を祭り、昭和二九年頃からは救済を求めて生長の家に入信して信仰心を深めたが共に良心を解放するを得ず、殊に被告人ヨリにおいては竹市の亡霊に悩まされたりしたことから昭和三六年頃より真剣に自首を考慮し始め、遂に昭和三八年一〇月一五日懊悩を振り切つて水口警察署に対し自首して出た。時に公訴時効の完成まで一一ヶ月足らずと云う瀬戸際ではあつたが、被告人ヨリの右自首により被告人イセノ、同杢助も共に正道に立ち返ることができた。しかも現在、被告人イセノは六四才、同杢助は六五才、同ヨリは五八才で共に人生の終焉に立ち、浮世夢の如く過去を語らんとする身である。現在被告人イセノは善通寺市において夫勝男と共に、愁い多かりし往時の回想に生きており、被告人杢助は滋賀県において、長男毅と共に工場を経営し、被告人ヨリも同杢助と共に安住の地を得ている。この一四年間、被告人等はそれぞれに本件を回顧して痛恨の念を禁じ得なかつたのであり、その被告人等は余生を竹市の冥福のために捧げ、寂然と生きると信じられる。そのような被告人等に対し今更叱責を大にしてこれを獄につなぐまでもないと考えられる。それ故、右の如き諸般の事情を考慮し、各所定刑期の範囲内で被告人等三名をそれぞれ懲役三年に処し、右情状により各被告人に対し刑法第二五条第一項を各適用してこの裁判確定の日から各三年間右の各刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条により、被告人等三名に連帯して負担させる。よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 橘盛行 谷口貞 橋本喜一)

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